アスリート・インタビュー

Athlete Interview

オクノクリニックはスポーツ選手・アスリートに対する治療も行っております。
実際にオクノクリニックで運動器カテーテル治療を行った、アスリートの方のインタビューをご紹介します。

インタビュー7デフ(聴覚障害)フットサル日本代表 船越弘幸選手

船越弘幸選手

挑戦を続けるアスリート。2020年新たなフットサルチームの入団が決まった船越選手。サッカーとフットサルの出会いや思いをインタビューしました。

フットサル日本代表選手の思いについて

ーフットサルをはじめたきっかけをおしえてください。


船越

小学5年のときにサッカーを始めました。
高校1年の時Jリーグが開幕し、高校2年の1994年にアメリカでW杯が開催され、ブラジルが優勝したのと、三浦知良選手が昔、単身ブラジルへ渡航し活躍していたことが重なって、自分もブラジルに行きたいと強く思うようになりました。
親の反対もありましたが、夏休みを利用してブラジルに1か月留学しました。
そこで、日本とブラジルのサッカー観の違いにカルチャーショックをうけました。
日本の場合、監督のいうことは絶対、練習時間が長い、走り込みが当たり前、先輩後輩の厳しい上下関係があるのに対し、ブラジルは「自分が思ったことをやれ」という自由な方針でした。
監督は、外からアドバイスするくらいです。
自分のやりたいサッカーができました。
1か月間の留学がブラジルでサッカーをすると思いを強くし、高校を中退して本気でプロを目指すことになりました。
言葉など知らない世界へ飛び込んだので、コミュニケーションはボディランゲージやチームメイトが話しかける単語を自分で勝手にイメージして言葉を覚えていく日々でした。
20歳になる前にプロの契約の話がきましたが代理人がいなかったので、契約が成立せず日本に帰ってきました。
それから定時制高校へ行き、日本でサッカーチームを探していました。
かかりつけの整骨院の先生に誘われて、体育館でやってるミニサッカーに参加したのですが、そこにはガンバ大阪、浦和レッズ、京都パープルサンガを渡り歩いて、日本代表にも選出された佐藤慶明(さとうよしあき)さんや、元ガンバ大阪で元日本代表の橋本英郎(はしもとひでお)さんもいました。
関西ではまだ馴染みがないフットサルでしたが、ボールに接する機会が多くプレーしてみると自分に合うと実感し、どんどんのめり込みました。
また民間大会に出た時対戦した関東のフットサルチーム「FUTURO」の上村信之介さんのプレーをみて、レベルの高さに激しいカルチャーショックを受け、本格的にフットサルを始めることになりました。

ー日本代表をめざし、自身でこころがけたことをおきかせください。


船越

耳が聞こえない日本代表。
生まれたときから耳は聞こえませんでした。自分の声が聞こえないので、口の動きで会話を認識できるようにしています。
母の厳しい教育のおかげです。
小さいころ、遊びに行くことよりも家で言葉の発声練習の毎日でした。
特に難しいのは「さしすせそ」です。
厳しい発音の練習のおかげで、健常者の方とも普通にコミュニケーションがとれます。
口の動きを見て視覚で情報をえるために、目の感覚が研ぎ澄まされていると思います。
ブラジルから帰ってきた時、難聴の友達に誘われ、耳が聞こえないサッカーチームに参加しましたが、みんな手話でコミュニケーションとっていて、当時は手話を全く知らなかったもので皆さんとコミュニケーションがうまく取れませんでした。
監督に全国大会を目指そうと誘われ1年プレーした結果、全国大会3位をとり、日本ろう者サッカー協会の人から、デフサッカー日本代表として招集がありました。
自分の目標は何かな?と考えたとき、ブラジルでプロになる夢破れた今、デフサッカー日本代表としてアジア大会、ワールドカップに出て優勝することでした。
1998年にサッカーで日本代表になり、2019年までの21年間日本代表としてプレーさせていただきました。
そのさなか、フットサルの聴覚障害者のワールドカップがあることを知り、当時フットサル協会がなかったので有志で協会を立ち上げ、助成金もない中自己負担でアジア大会やW杯に出ました。
サッカー日本代表とフットサル日本代表の2足の草鞋をはきながらプレーしてきました。
日本代表というものはお金で買えるものじゃないし、なりたくてもなれるものじゃないし、身体が動いている間は、「日本代表」としての誇りを持ち続けたいという強い思いがありました。
それがあるからどんなに苦しいことがあっても諦めずに、腐らずに続けれたと思います。
もちろん、家族や職場など周りの人たちの理解があってこそです。

痛みについて

ーいつぐらいから、痛みについて悩まれるようになったのでしょうか?
痛みを緩和するために取り組まれた治療もお聞かせください。


船越

20代のときから慢性的な痛みに悩んできていました。
痛みで休んだり、痛いと漏らせば試合に出してもらえなくなるため、痛みをロキソニンで消したり、騙し騙ししながらプレーしていました。
常に違和感があり、急ストップ、急ダッシュの動作は激しい痛みを覚えます。
そのためどこかでセーブしたプレーで、全力でプレーできない自分が大変もどかしかったです。
ワールドカップに向けて追い込む日々で膝を酷使し、去年ワールドカップが終わったとたん、激しい痛みにより、自転車・階段の昇降・椅子に座って立ちあがるときに激痛が走り、日常生活に支障をきたすようになってきました。
膝蓋腱炎という診断で、体外衝撃波を数回受けながら1ヶ月ほど安静にして、治療で膝蓋腱炎は完治しました。
しかし自転車・階段の昇降、椅子からの立ち上がりによる痛みは取れませんでした。

ーオクノクリニックでの診察・カテーテル治療をうけた気持ちをおきかせください。


船越

いい治療法がないかとウェブ検索をして、オクノクリニックを見つけました。
サッカー選手の治療内容を閲覧して、自分の症状と似てるのが気になって連絡したのがきっかけです。
初診の際に、モヤモヤ血管(不要な血管)があると言われ、早速来週カテーテル治療をしましょう!と言われました。
え?もうカテーテル治療するの?と驚きましたが、これまで所属していたフットサルチームのGypsy futsal club(関西リーグ2部)を退団し、東京都の古豪FUTUROに加入が決まっていたので、フットサルを始めるきっかけとなったFUTUROで上村信之介さんと一緒にプレートするにあたって、今の膝の痛みがなく、最高のコンディションでプレーしたいと思いカテーテル治療を受けることにしました。
コロナ感染症拡大防止による自粛の影響で、チーム活動やリーグ戦がないタイミングでよかったと思っています。

ーカテーテル治療後、現在はどうですか?


船越

受けた直後は、痛みがすぐなくなりました。
その後、痛みが出たり、なくなったりと波があり一喜一憂の毎日でした。
脂肪体にモヤモヤ血管が多かったようで、痛みが軽減し消えるのに時間がかかると言われました。
カテーテル治療から1ヶ月後の再診で注射を打っていただきました。
その2日後に痛みがバッサリ消え、これまで痛かった自転車、階段の昇降、椅子からの立ち上がりの痛みは全くなくなり、現在自主トレーニングで急ストップ急ダッシュなどアジリティトレーニングをやっていますが、全く痛みはありません。
数字で表現すると、10が最大の痛みとしたら1ぐらいになっています。
これまでの数年間の痛みや違和感が全く嘘のようです。
今後は身体の使い方をパーソナルトレーナーにアドバイスもらいながら、膝に負担のかからない走り方を極めて行きたいです。
今後は、フットサルを始めるきっかけになったFUTUROで自分ができることは何かを考えて、FUTUROの仲間と共にこの一年間はがんばりたいです。

写真:Gypsy futsal club

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